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喪主になってわかったこと ⑥ [生活]

朝になって、また姪に帯を結んでもらって

告別式・出棺となりました。

3つの斎場をもつ葬儀社ですが、

この日,他の葬儀はなく、

大勢の社員さんが飾られたお花を採って

お棺にいれる準備にかかってくださり

とても贅沢な空間でした。 

出席くださるのは昨日に続いて来て下さった親しい方ばかり、

人数もぐっと減りました。

告別式の後も会場の玄関でお礼を述べたのですが、

火葬場から会場に戻ったあとだったのか違うのか

定かな記憶がありません。

 

告別式のあとは火葬場にバスでの移動ですが、

お付き合い下さる方が急に増えて

精進落としはバタバタでした。

(普通なら急に増えることはあり得ないのでしょうが) 

火葬場の会場の料理も葬儀社の方が対応

急な増加分を何とかして下さいました。感謝です。

ちなみに火葬場での飲み物は、火葬場の守備範囲で

帰りがけに現金払いでした。

ビール1本の価格は良心的な値段でした。

(公営だからか・・・・・) 

献杯の発声は、一番年上の叔父さんです。

 

火葬のあとは、まず家族だけが最初にお骨と会い

説明を受けそのあと皆様に拾って頂く手順でした。

家系なのか、カルシウムを摂っていたからなのか

骨はしっかりしていました。

他の日と比べたわけではあませんが火葬場は混んでいました。 

 

家族は、母がまだ入院してる・・・・・と思いたい状態で、

ピンクのカバーに包まれた骨壺は実感がありません。 

 

 

 

 


喪主になってわかったこと ⑤ [生活]

細かい事は、よく覚えていないお通夜の日。

一応は黒の服で、喪服(和服)をもって式場に行き、

喪服を着ようと思ったら久々なのとあせってしまったので帯が結べず、 

夫の方の姪っ子に帯を結んでもらいました。

どの姪も気が利く上にスキルを持っていて、素晴らしいです。 

娘のいない私は感心するばかりです。 

社員鈴木さんに着付けの人を頼まず着物を着たと

褒められました。

 

思いもかけず喪主となり、お上人さまの所作がよく見えるお席で、

これが劇場だったら、特等席だと思いつつも 

うつむきながら、滞りなく式が進むように願うばかりの私でした。

供花に洋花を選んだ今どきの祭壇は、ピンクのお花も入っていて 華やかで、

お棺も骨壺カバーも予想以上に、はっきりとしたピンクです。

(カバーの色は5色位あって写真で選んだ) 

喪主挨拶は前日に台本を書きました。

早口すぎたと身内からのご指摘、

さすがに大っぴらにはリハーサルできないので仕方ないと思う事に。

 

お通夜や告別式に来て下さったり電話でお話しして印象深かったのは 

母の同級生の方々の「昭和の初めの女子校の世界」

当然みんな80才を過ぎていて、

小学校から高校まで女子のみの一貫校、

短大も女子大だった母の独特な感じにふれました。

特に小学校から一緒だった方々は、

「今でも会うとばかみたいに子どもの時に戻って本当に楽しかったの」と

悲しんでくださいました。

 

またもう少し大人になってからのお友達にはグループがあるらしく、 

「グループが違ったけどみんなに内緒で二人で遊びに行ったこともあるの」、

と話して下さった方もいて思春期?までの思い出の影響の大きさを感じたのでした。 

また「~活動」(たぶんボランティアのこと)といった独特の単語もありました。 

 

話はそれますが、このグループというのは

大人になってもかわらないようで、そこでの力関係もそのまま 

なかには、お孫さんの自慢をされる方がいらして

そのお子さんより偏差値の高い学校に行ったら

ハブかれた事件もあり、おそるべしおばあさま方と思う事もありました。

私も子供の頃は「ごきげよう」と挨拶する学校でしたが、

新興住宅街に引っ越してからは、「だべ」と話す男子と

楽しい中学生生活をおくっていました。 

「だべ」と話す男子は語尾はともかく優しくてかっこよかった。

最近、お会いしたところ、人柄のよさはかわっていないけれど

まあ、今となっては、それなりの良いオジサン。お互い様です。 

昼休み、女子達は体育館の外壁に寄っかかって

上級生男子ウォッチングにいそしみました。

同級生の男子はプロレスごっごに興じて子どもっぽいと

思っていました。

平和な田舎の中学生。

子どもの頃の記憶は一生モノなのでしょうか。

 

葬儀の会場の話に戻ります。 

この日は祭壇のある階の上の広い部屋で貸し布団で休みました。

お風呂も台所も付いています。 

順番にお線香を上げに行ったり顔を見たりするものの

お線香は、長持ちする螺旋状のものが点いていて

お線香を絶やしてはいけないという緊張感からは少し解放され 

通夜の式が終わった後は、妹と私の家族しかいないので

近所を意識してしまう我が家より、母とゆっくり出来た気がします。 

家族葬をうたっている今どきの葬儀社ではありませんが、

私のイメージしていた家族葬の感じはこれだと思いました。 

 

お通夜には120名余りの方々が来て下さいました。

ご夫婦にお子様達と一家で来て下さった方もあり、

もっといらして下さっているかもしれません。

毎日、おしゃれをしてお稽古事に出かけていた母・・・・・・ 

そういえば、名前だけでいいからといわれたから

と言って役員もやっていました。

たくさん来て下さってありがとうございました。

お通夜の日は会場で泊まり、みんなでワインをのみ、

朝食は頼まず、泊まらなかった姪達がパンとコーヒーなどを

買って朝来てくれたように記憶しています。 

普段は朝ご飯が何杯でも食べられる食いしん坊な私も

この期間は、食べ物に興味がわかきませんでした。 


喪主になってわかったこと ④ [生活]

深夜となったの打ち合わせ、

葬儀社の方が死亡届や火葬場の予約や待合室の手配を代行して下さり、

告別式の予定は、火葬場と精進落としの会場が空いている時間に

合わせて決めることとなります。

お昼にあわせた時間は精進落としの会場が一杯で

午後一時からの告別式となりました。 

火葬場までお付き合い下さる人数も把握しなくてはなりません。

死亡診断書を社員鈴木さんにお渡しし、死亡届をしていただきます。

埋葬の時必要な死亡届は、

のちに骨壺の袋に入れて置いて下さり

死亡診断書のコピーも数枚とって渡してくださいました。

この辺りの事務手続きは代行して下さり、

後の除籍謄本には届出人が喪主の私になっていました。 

 

次の日は朝から妹達と家で、親戚、知人、友人への連絡業務です。

それから、お付き合いのある僧侶

(日蓮宗だったのでお上人〈おしょうにん〉さまというらしい)

神棚に紙で目隠しをします。

母の部屋のハガキや連絡帳を出してきます。 

受付は親族ではだめとのことで受付もお願いしなくては・・・・・・

といったことも頭に浮かびつつ、 

妹が母の電話帳の端から電話をしようとした時 、

「受付はご近所のお世話になっている方に頼もう・・・」とひらめき、

とにかく相談に行くと、その方が「受け付けお手伝い」の声かけと

「自治会関係」の連絡を全部して下さった。

ご近所力に感謝です。 

なので私たちは母の友人関係お稽古関係に専念する事ができました。

直接お電話する方、遠方等々でお葉書を出す方、

姉妹で相談しながら連絡したり連絡をお願いしたり。

お上人さまに連絡し、

もう考えてもわからないので戒名などなど

金額も直接聞いてしまう。

とにかく何でもお尋ねしてしまう作戦しかなく、お上人さまから、

そのとき四十九日のお話しもあり、

土日に越したことがないので、墓地に四十九日法要の式場の予約をし

(それでもベストな時間は埋まっていた) 

やらねばならないことはたくさんあります。

葬儀社が、やるべき事の詳しい小冊子を下さるのだれど

周囲の助けで、式関係の事は進んでいきました。 

老人会(みんなバリバリ)の方から、

地元から会場までの送迎のバスはどうなっているかとの質問があり

送迎のバス?????というわけで葬儀社にお問い合わせました。

一台48000円の二往復の二日・・・・・・・おお、二十万・・・・・・

でも出すものらしいので、お願いすることにすると会の方が交渉にあたって下さり、

待ち合わせ場所の手配から当日も様子をみて

二日目はなくて大丈夫と直接葬儀社と連絡をとってくださいました。

皆様のおかげで何とかお葬式は出来そう。受付も4.5人いて下さったが、

引っ越してきた当時のご近所さんばかりで、70才以上の方も多く

たいへんありがたく申し訳なく思いました。 

お手伝いの方々への気持ちばかりのお礼のポチ袋に

「ありがとうございます」のカードを妹が書いて入れました。 

これも足りなくならないように多めに用意しました。

供花へのお花(15000円、20000円)も受け付けさせて頂き、社員鈴木さんから

「頼んだ方からちゃんと頂いて下さいね」と助言をうけ、

準備の二日間は、慌ただしくすぎて、お通夜になってしまったのです。 


喪主になってわかったこと ③ [生活]

この先、大変お世話になる事となった葬儀社の社員鈴木さんが後で話して下さったことには

病院の霊安室で私たちを見た時、いままで会った施主さんの誰よりも

私達の顔が全員真っ青で驚いた。とのこと。

式の途中で何度も大丈夫ですよと声をかけてくれたのは

そのせいだったと後で思いました。何かと気遣い下さり感謝です。

(急に喪主になった私には納得の感想ですが、後に妹に話したら、

みんな色白だからそう見えたんじゃない?とクールに答えた) 

葬儀社は独立した3つの式場をもっていて、

その中でも地下から3階までの独立式会場を薦められました。

そして、そこは20年前に66才で亡くなった父の式を行った場所でした。 

打ち合わせの中で「自治会の役員をやっていませんでしたか?」ときかれ、

その時は、特にないと思います・・・・・と答えました。

役員をやっていると会葬者が多いということらしいです。

このときの社員鈴木さんの問いが、あとで良くわかることになるのですが。 

基本料金などの説明をうけ、料理やオプション、香典返しを選びます。

妹がお稲荷さんや巻物も食べたいといったので

料理代が少し安くなったような気がしました。

大トロ追加じゃなくてよかったです。

時間があったらしゃれた料理がでる会場なんて考えたかもしれませんが

もう、それどころではありません。 

寿司桶やオードブルをテーブルにうまく配置できる量+追加もOKとのこと。

(本人も周りも急な事だったので葬式代の心づもりもなく時々クラクラしました) 

祭壇や棺や骨壺のカバーの色、写真の額縁の色、選ぶものがいろいろ。

今は白ばかりではないのです。白、紫、ピンク、青・・・・・

他に湯灌コース、古式コース、メイクコースとエステみたいなコースもあります。

メイクだけお願いしました。

ちなみに夫の地元でお葬式に出席したとき、

湯灌は映画のように納棺師(女性二人) が、儀式を行い驚きました。

特にオプションをつけなくても納棺は普通に行ってくださるのですが。

香典返しは、余ったら引き取って下さり、ハガキは50枚単位で増刷。 

葬儀の細かいあれこれを担当鈴木さんと決めていきました。 

それから葬儀までの二日間、怒濤の準備が始まりました。


喪主になってわかったこと ② [生活]

私たちがまず必要だと思ったのは、通夜・告別式を行う斎場です。

この日、当番だった葬儀屋さんは隣の市の式場を持たない葬儀屋さんでした。

専業主婦だった母ですが、お付き合いもたくさんあったので、

家族だけでの葬儀ではなく一般的な葬儀が良いと思っていました。

姪が電話で公営の斎場や火葬場の状況を調べてくれました。

火葬場は、友引お休みくらいの知識はあったので、火葬場の予定も大切。 

(火葬場や精進落としの部屋の手配は葬儀社が行ってくれるのですが)

 公営の斎場は次の週まで一杯でした。

次に斎場を持っている葬儀社をいくつかあたってみました。

(姪っ子の仕事ぶりに感心)

夜も更けてきましが、葬儀関係の所は、公営でも私企業でも電話がつながります。 

病院の当番の葬儀屋さんも、とても誠実な方で相談に乗ってくださいました。 

結局、地元では良く名前の知られた葬儀社にお願いすることにし、

当番の葬儀屋さんもここなら大丈夫といってくれました。

(当番の葬儀屋さんは病室から霊安室まで運んで下さるが料金は発生していない) 

そして葬儀社から担当の鈴木さんが来てくれました。

病院の霊安室に翌朝までいることも不可能ではなかったらしいのですが、

(病理解剖するならそこにいなければいけなかったわけだし)

他の方もお亡くなりにならないとは限らない・・・・・・

霊安室の相部屋は、あまり考えたくないです。 

家は、母が元気で帰ってくる時のために母のベッドのものを洗濯し

乾かないものを部屋一杯に広げたまま。

そして、いくら深夜近くでも、だれにも見られずに家に入れるだろうか。

ご近所さんを、まだお騒がせしたくないし、私も対応できる自信はありません。 

なので、葬儀屋さんの黒い寝台車に乗せていただき、

縁のあるところや仲良しのお宅の前、我が家の周りをまわってもらい

葬儀社に行くことにしました。

葬儀社には小さな独立した畳の部屋があり、家にいるように寝かせていただき

お線香を上げる台や座布団が用意されていました。 

葬儀社に預かって頂くイコール冷蔵庫の部屋と思っていたのですが、

その葬儀屋さんでは、しばらくの間は、家に帰ったと同じように安置して下さっていました。 

そこで、もっと長く一緒にいてあげられたのに、その時は気が回りませんでした。 

それから事務所で打ち合わせが始まりました。

 

この日の夕食はどうしたのか思い出してみると、 

夕方から長引くことが予想されたので、おにぎりやパンが買ってあり、

病院の霊安室で少し食べました。 

病院では整形外科の担当医もお線香をあげに来てくれましたし

霊安室を出るときには、

担当ではない看護師さんでしたがお二人、見送って下さいました。

もしあの時、気づいていたらと思う事もあり

あまり思い出したくないのですが

若いお医者さんが誠実だったのが救いです。 


喪主になってわかったこと ① [生活]

のんびり過ごしていた夏休みも半ばを過ぎた頃、

母が膝を怪我して入院、そして一週間後、亡くなりました。

予期せぬ出来事でした。

怪我で片足をギブスで固定していた為、血栓ができ

肺に詰まったのかもしれないと考えられるものの

はっきりしていません。

怪我と言っても損傷したのは膝のお皿だけ、

これがエコノミック症候群だろうか・・・ 

急なことで未だに信じられないけれど、経験したことを書き留めておきたいと思いました。

 

その日、病院には妹に行ってもらい、私はプールにいったりしていました。 

母は病院で急に倒れ、心臓マッサージを長くして下さったものの夕方、中止しました。

危篤になってから、私たち姉妹とその家族が集まり、

時々医師が説明に来てくれていました。

当日、整形外科のICUには、母一人だけで、亡くなった後、

若い看護師さんが、

「お着替えをしましょう。またお気に召していた髪飾りなどありましたらお付けします」

といって下さった。

80歳過ぎの母に、また今どき流行っているとは思えない「髪飾り」が不思議な気がしました。

入院時は、パーティで膝をついて転んだ帰りだったので、お気に入りの洋服が置いてあり

お着替えさせて頂き、とてもありがたく思いました。

妹と荷物をまとめ、使わなくなった薬などは、看護婦さんが捨てて下さるとのことでした。

さりげない心遣いを感じました。

原因は、はっきりわかっていないので病理解剖のお話がありましたが、辞めることにしました。

突然の出来事だけれど、すぐに今後の事を考えなければいけません。 

一家で母の養子になる予定で(昔でいう家を継ぐ)同居したものの、

まだ具体的に籍をいれるなどしていず、長女の私が頑張らなくちゃと思い

それから緊張の日々が続いています。 

ICUから病院の霊安室まで運ぶのは葬儀屋さんの役目でした。

その病院では、月替わりで当番の葬儀屋さんがいらっしゃるとのこと。 

有無もいわず最初にお世話になる葬儀屋さんはどんな会社なのだろうか、

不安な気持ちになりました。

ICUからストレッチャーに移動した母は葬儀屋さんの車で、

私達は歩いて病院内の難しい経路をたどって霊安室まで移動しました。 

霊安室は、病院のはずれだったけれど元宿直室なのかもと思われる建物で、

祭壇の続きには畳の部屋があり、みんなで座って相談できる時間もありました。


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